自他の境界が曖昧

これも興味深い説明。

境界性パーソナリティ障害と自他の境界線の曖昧さ2:ストレス耐性の低さが生む判断基準の硬直化

自分の視点と他人の視点を同一化してしまったり、自分の感情と他人の感情を混同してしまう事で、自分とは異なる『他人の意見・感情・考え方・好き嫌い』を許容しづらくなり、自分の期待や要求に応えてくれない他人に怒りや暴言、不満をぶつけやすくなる。家族・恋人など親しい関係にある他者が、『自分の意見・要求・感情』に合わせてくれない事に対して、“怒り・不満・いじけ・悲しみ(寂しさ)”を感じる事自体は珍しくはないし、多少は誰にでも起こる感情だろう。

しかし、境界性パーソナリティ障害(BPD)では『他人が自分と同じように考えて行動・反応するのが当たり前』という自他の境界線の混同が生まれるので、自分が好きなもの(嫌いなもの)は相手も好き(嫌い)なはず、自分の主張や考えに対して絶対に賛成・応援してくれるはずという思い込みが強くなり、他者との人間関係に対する怒り・不満・悲しみが爆発しやすくなるのである。

BPDの人でも、自分と他者が異なる別々の人間であり、自分と同じではない独立した人格であることは“意識領域”では分かっているのだが、“無意識領域”では相手が自分の期待・要望に応えてくれるのが当然(自分を愛してくれているのであればそれくらいはしてくれるのが当然)という認知を捨てきれず、『他者に対する怒り・不安・見捨てられ感』に捕われて苦しみやすくなってしまう。

境界性パーソナリティ構造(BPO:Borderline Personality Organization)やそれに近似する性格傾向を持つ人は、以下のような場合に自己と他者の境界線が曖昧になりやすくなる。

1.本人の『ストレス耐性』を越えるような強いストレスやフラストレーションに晒されている時。

2.甘え・依存が許されやすい『親密な人間関係(恋人・家族・親友との関係)』の中にいる時。

3.その場で何をすれば良いのかがあらかじめ決まっていない『構造化されていない関係・状況』の中にいる時。

BPOの人格構造を持つ境界性パーソナリティ障害(BPD)は、自己アイデンティティが拡散しやすく対人関係も不安定なので、一般的にストレス耐性(フラストレーション耐性)が低くなりやすいが、そのストレス耐性の低さが自他の境界線の混乱に加えて、『BPDの持つ本質的な問題・原因からの逃避と転嫁』を誘発するのである。

BPDの持つ本質的な問題・原因には、『対象恒常性の欠如による対人不信(その裏返しのしがみつき・依存性)・自己アイデンティティの拡散による目的喪失(自分ひとりでは何を頼りにして生きていけば良いか分からない)』などだが、ストレス耐性の低さによって目先の小さなトラブルや相手の些細な反応、今の時点での不快感・寂しさばかりに意識が向かいやすくなってしまう(=逃避・転嫁を促進してしまう)のである。

自分と相手の視点を同一化してしまう事で、『物事・言動に対する判断基準』が自己中心的に一面化してしまい、『相手がどのように感じているか・なぜその反応を返してくるのか』ということに対する想像力がなくなってしまう問題もある。

自分の好き嫌いや善悪の分別、快と不快の感覚が『物事・言動に対する判断基準』のほぼ全てになってしまい、その独善的・自己中心的な基準に見合わない反応を返してくる他人に対して、強い不信や激しい怒りを感じてしまいやすい。その結果、『自分のためを思ってくれた上でのアドバイス・苦言』などが殆ど耳に届かなくなり、自分の感情や主張を無条件に受け入れてくれるだけの“イエスマンのような存在(絶対に反対しない裏切らないように見える存在)”でないと、安定した安心感のある心理状態を維持しづらくなってしまうのである。

http://charm.at.webry.info/201207/article_19.html

 

BPDがパートナーを自分と同一化してしまうために、自分との差異を許せなくなってしまうと言うこと。

 

 

境界性パートなりティ構造については面白い考察があった。

参考にされたし。

なお、この中の

個人的には境界性は邪悪だと思っている。僕自身が診断されているのだから、これは悪口ではない。愛着障害だけなら邪悪さはない。しかし境界性は人を相当意地悪く試そうとしたり、操作しようとしたり、裏切られたと感じた時には猛烈な復讐心を燃やす。総じて害意が強い。そして自己愛性と並んで「フェアネス」の感覚が欠如している。一方的に要求を叩きつけ、それが叶えられる事を期待する。

というのは、自分の場合実感として感じていたことで、非常によく分かる。自分勝手にいったん「悪い人」と見なすと、まさに邪悪そのものになる。傷口に塩を塗り、いたぶるようなことを平気でする。ただし、

 しかし、この邪悪さは子供のような無知さや想像力の弱さによって起きている場合もある。自分のやってる事を相手の目線で見る習慣をつけ、フェアネスの感性を磨くと、短期間でも見違えるほど改善する。下位承認を求めるのをやめて(これが一方的な要求の根拠になりがちだからだ)、対等な関係を築く。どっちが上だ下だとか言い立てるのをやめ、被害者に回り込むのをやめる。被害者根性を捨てること。公明正大な人間であろうと努力すること。これだけでも相当に改善する。自己愛性に比べたら、境界性は改善が容易だ。

間違えてはいけないのは、「他人に良く思われよう」ではなく「良い人間に自らなろう」と考えること。他人に良く思われようとすると依存性が悪化したり、ズルさを身につけてしまい自己愛性に進みやすくなる。自己評価が一定しないとか自分の価値観が一定しないのが境界性という説もあるので(僕はこれがまったくないけど)、そう感じたらまず「自己確立」を目指すのが良い。「自分をしっかり持つ」。そうすれば他人の評価や判断に振り回されにくくなる。

としている。なるほど、そうした認知の変容があれば、改善はあり得る。

ただ気になるのはここでも自分を分析的に見る能力のある人かそうでないかという問題だ。このブログを書いた方は明らかに前者であるが、後者は考えない、自分を見ない、逃げるなので、他人に働きかけられてもなかなか自分を変えようと思わないだろう。

 

 

うつは言葉に出るらしい

ウォールストリートジャーナルの記事から。

「うつ」は言葉に出る、その一言を変えるヒント

口にする言葉そのものが重要だと心理学者は指摘

By Elizabeth Bernstein
2018 年 6 月 13 日 09:44 JST 落ち込んでいる人は自分の言葉に注目するといい。コンピュータープログラムを使って人の話や文章を分析する機関によると、「うつ」状態にある人の言葉は内容も単語の選び方も大きく変わる。落ち込んでいる人は「私」を使う頻度が高まる傾向にあり、これは自分への注目が高まっているしるしだ。また、過剰すぎるほど白か黒に分けるような思考を反映する絶対的な言葉が多くなる。人は落ち込むと話し方が変わることは研究者の間で長らく知られていた。具体的には、声が小さく、抑揚がなくなり、話をやめたり再開したり休んだりと不自然になる。だが最近の研究によると、落ち込んだ人は使う単語も違う。

テキサス大学のジェームズ・W・ペネベーカー教授(心理学)によると、落ち込んでいる人は微妙なニュアンスに配慮せず、そのことは使う言葉で分かる。

がんなどの疾患と違ってうつ病にはバイオマーカーがないため、療法士は患者が訴える症状や分析を頼りに診断を下しているのが現状だ。いずれもかなり主観的になり得る。先週亡くなったデザイナーのケイト・スペードさんとシェフのアンソニー・ボーデインさんは自殺したとみられており、うつ病の診断・治療がいかに難しいかを物語っている。

3月に専門誌「ジャーナル・オブ・パーソナリティー・アンド・ソーシャル・サイコロジー」の電子版に掲載された研究では、米欧の大学の研究者が「うつ」の度合いを測るため、米国とドイツの6施設で4700人超に質問をしている。恋愛相手との最近の破局や生活満足度、全般的な思考や感覚などについて被験者に記述してもらい、その言葉をソフトウエアが分析した。その結果、落ち込んでいる人はそうでない人に比べ、否定的あるいは悲観的な言葉が多かったほか、1人称の代名詞が目立った。

論文を執筆したペネベーカー教授によると、人称は関心の対象を示す。関心が他人に向いている人は3人称の「彼」や「彼女」を使う。人間関係への関心が強ければ「私たち」だ。これに対し、「落ち込んでいる人など、自分のことを考えている、つまり自意識が強い状態にある人は『私』(Iやme)を使う」という。

1月にク リニカル ・サイコロジカル・サイエンス誌に掲載された一連の研究によれば、「うつ」の人は世界を白か黒かで見る傾向にあり、絶対的な考えを示す「しなければならない」「完全に」「すべきだ」「常に」といった言葉を使う。

英レディング大学の研究者らはこの研究で、「うつ」、不安障害、自殺願望に関するインターネット掲示板のメンバー合わせて約6400人の言語を分析。ソフトウエアを使って絶対的な言葉の割合を計算した。「うつ」のフォーラムと不安障害のフォーラムでは使われた言葉の約1.5%が絶対的なもので、比較対照のフォーラムでの割合を50%上回った。自殺願望フォーラムでは約1.8%とさらに高かった。

絶対的な言葉はなぜ悪いのか。人は自分がそれを使っていることを認識せず、否定的な思考を強める可能性がある(例えば雨でバーベキューが中止になった時に、「いつもこうだ」と言うのは「6月は天気が予想できないことがある」よりずっときつい)。

心理学者らによれば、言葉は思考回路を変えるのに役立つ道具になり得る。筆頭執筆者のモハメド・アルモサイウィ氏(レディング大学)は「言葉に出すことで、それが内面に定着するケースは非常に多い」と話している。以下はその対策。

* 言葉が伝える思考だけではなく、口にする言葉そのものが重要であることを忘れない。否定的な言葉を肯定的な言葉に置き換えられない場合でも、もっと正確かつ中立的な言葉を探す。「このパーティーはひどい」ではなく、「このイベントは私向きではない」と言ってみる。

* 絶対的な言葉を排除。目標や関係性については特に気をつける。結果が期待に沿わなかった時にひどく落ち込む恐れがあるからだ。避けるのは、常に、決して、何も(ない)、なければならない、あらゆる、全体的に、完全に、絶えず、全体に、全て、間違いなく、完全な、100%、といった言葉だ。代わりにあいまいな言葉を使う。「決して好機をつかめない」ではなく、「うまくいかないこともある」といった具合だ。

* 書く。日記をつける。意識の流れについて書く練習をしてみる。友人あての電子メールを書く。それから使っている単語を分析する。あまりに否定的または絶対的すぎないか。全て自分に関する単語か。そうした文章は変え、話す時もそうした単語に気を付ける。

* 信頼する人に、絶対的ないし否定的な単語や文章を使っていたら指摘し、変更を促してほしいと頼む。自分の言葉より人の言葉の方が気づきやすい。

* 絶対的な言葉に代わる決まり文句を作る。例えば、「いつもこうだ」ではなく、「今回はこうなった」と言う。それを付箋に書き、見えるところに貼る。スクリーンセーバーにする。その言葉を刺しゅうした枕を作る。

* 「私」という単語に気をつける。大半の文に「私(Iやme)」があったら、関心が自分に集まりすぎているのだろうとペンベーカー氏は話している。
wsj.com

鬱が出てくると、二極思考が現れるという。それが言葉に反映すると言うことらしい。

逆に、言葉を変えることで思考も変わるという。

ツイッターで見ていたら、「死にたい」を言い換えるという実践をした人もいた。

BPDの場合で、日記をつけることで感情変動の因果をとらえる、自分を客観的にとらえていくことで改善を図るという方法があるらしいが、言葉で説明をすることで思考を変える効果もあるはずだ。

 

これらは認知行動療法に当たると言うことらしい。

モーメントにまとまっているので、興味のある方はどうぞ。

 

私の接していた人は言葉で説明するのが苦手らしく、言葉にすると違ってしまうと言っていたし、感覚的・感情的な言葉ばかりを使っていた。長文を読むのも苦手らしかった。

ある頃から感情不安定になりうつ傾向になったが、そのころには関心は自分にばかり向いている様子があった。その後、豹変してしまった。

今思い返すと、言葉がサインになっていたように思う。

一人一人違う

あたり前のことではあるけれど、人は受け継いだ遺伝子も違えば、育つ環境も違い、同じ人はどこにもいない。

精神的な問題も、当然違ってくる。

BPDとしての遺伝的要素を持っていても、環境によって症状が現れなかったり、現れたりするし、現れ方も人によって違う。

BPD的な心性を持ち、診断基準を満たさなくてもいろいろな問題を抱えていることはもちろんあるはずだし、診断名にこだわってもあまり意味は無いかも知れない。

現にある症状、行動が問題なのだから。

BPDの【被害者】という言い方があるぐらい、BPDは、他人をぐさぐさに傷つける。家族やパートナー、親しい友人などが大変に苦しい思いをする。時に自殺に至ることもある。

本人は、内には不安を抱え、霧の立ちこめたような世界の中にいるような感覚を持っているのかも知れない。

しかし、少なくとも表面的には他人を傷つけても本人はケロリとして、何もなかったかのように一顧だにせず、他の人や楽しみを追いかけていたりすることもある。全て相手のせいにすることもよくある。やられた方はたまらない。おかしい人、異常な人格、凶悪な人格の持ち主ととらえられても何の不思議もない。あるいは精神の病気。

日本語ではパーソナリティ「障害」(PD)と訳されているけれど、disorderは病気というところまでは行かない健康と病気の中間的なニュアンスを持つらしい。精神病への偏見からあえてこう言う言い方をしているらしい。

disorder【名】

  1. 無秩序、混乱、騒動
  2. 乱雑
  3. 不規則
  4. 《医》疾患、不調、病気、障害

(英辞郎)

しかしながら、治療をしないとどうにもならない病気であるのは間違いない。自己愛パーソナリティ障害など、加齢と共に悪化するという。

健常な人と区別がつかないような生活をしているような人もいて、本人も病識を持たないので医療にかかることもない人もいる。しかし、他人との関係をうまく作れず、相手を傷つけ、破壊的な結果を繰り返す。

暴力・暴言・自傷などが典型的問題行動ではあるけれど、BPDの心性の根源である見捨てられる不安は必ずしもそういった形をとるとは限らず、人によって別な形で現れてくることもありうる。BPDと診断されることはないかも知れないが、未熟なパーソナリティによる視野の狭い見方と価値観が問題行動をとらせ、他人を痛めつけてしまったりする。

相反するものが一つのものにあることや中間をとらえられないオールオアナッシングの二極思考(分裂、スプリッティング)はBPDに限らずパーソナリティ障害に見られる。逆に言えば、この現実的な状態を受け入れる部分の未熟がいろいろなとらえ方の問題を引き起こし、問題のある行動をさせているのだろう。BPDは分類をしたその一つに過ぎない。

いずれにしろ、健常な人とは異なる心の動き、脳の働き方をもっているが故に、問題を引き起こす人がいる。特定の診断基準を満たさなかったりするかも知れないが、確実に問題をもっている人はいる。

そういう人は、本人が困らない限りは治療を受けることもなく、満たされることを求め、無限の愛情を求めつつ、誰かを激しく傷つけては相手を変え続け、周囲には極端な性格の人と腫れ物に触るように扱われながら生きて行くのだろう。

パーソナリティ障害と診断されるかどうかとは別に、健常な人とは異なる脳の働き方をもっていて、心に問題を抱えて生きている人は、身のまわりにも確実にいるはずだ。

本人が生活に支障があると自覚したり、社会生活に適応出来るか否かを基準としていては拾い上げられることがない、他人の精神、時に生命を危機にさらすような問題を抱えた人達が社会に普通にいる状況であることを、理解しておかなくてはならないようだ。

アメリカではとらえられている高機能型BPDも、日本ではたとえ精神科を受診する機会があっても社会生活に支障がないとしてほとんど捕捉されないのではないか。一皮めくれば低機能型と同じだというのに。

そうであるなら、本人にとっても周囲にとっても不幸なことと思える。

 

 

 

BPDの人は矛盾に満ちているのか

https://twitter.com/BPD_NancyDoll/status/1018562472368791552

自分が接した人も、矛盾ばかりだった。

言うこととやっていることが矛盾し、前にいったことと今いってることが矛盾し。

自分で説明したり、どうして欲しいと言うことを言えないようだ。自分で問題解決が出来ず、すべて相手に責任を押しつけて、挙げ句の果てに逃げ出してしまう。相手には全く伝わらない。

本当に、幼い子供のようだ。

本人が物事のとらえ方を修正し、問題解決の仕方を学ぶしか、解決の方法はなさそうに思える。

そうしない限り、いつまででも人間関係をうまく作れないまま人を傷つけ続けるだろうに。

 

 

 

BPDに地域的差がある?

BPDと言えば10代、20代のリストカットや過量服薬を繰り返す若い女性の病気という理解が一般的かもしれないが、30代はもちろん、40代、50代でも該当する女性は多い。むしろ、私は開業してまだ2年だが、イライラや情緒不安を訴えて受診される女性や、前医でうつ病やパニック障害と診断されたがなかなか改善しないと受診される女性のほとんどがBPD、ないしBPD的心性の濃厚な方である。
 私のクリニックがある沿線には多いと聞いてはいたが、それにしても訪れる女性、訪れる女性が皆BPDというのは驚きであった。
https://www.medi-gate.jp/selection/2017/10/26/opinion201105/

 この文を書かれた方が院長を務める青葉メンタルクリニックは田園都市線の青葉台にある。

 来る女性来る女性が皆BPDやBPD的心性というのは驚異的だ。

 田園都市線と言えば東急が開発した高級住宅地が連なる。本来なら谷津田で住みにくい高低差のある土地を、東京への地の利とイメージでうまく売ってしまった地域というイメージを持っている。開発からは随分時間が経っているので、年齢層は幅広いだろう。
 その沿線に多いと言う話が統計上有意かどうかはわからないが、少なくとも印象として新興高級住宅街は異常に教育熱が高く、子供を縛り付けるようなやり方をしているのを電車や飲食店の中ですら見ることがある。あくまで印象ながら、教育虐待は起こりやすそうだ。

 イライラや情緒不安定で受診するのはまだマシな方で、その背景には受診することないBPDやBPD的心性を持つ人がいるのだろう。

 上記の引用に至る部分から。

「人は皆、最初はお母さんのお腹の中にいます。それで、お母さんのお腹にいる間は、守られているから安心なんです。でも、いざ生まれてくると、どこだかわからないところに突然出てきて、おまけに人間の赤ちゃんて、すごく未熟ですよね。放っておかれたら、死んでしまいます。だから、このまま死んでしまうんじゃないかとすごく不安で怖いんです。泣くことしかできないし。でも泣けばお母さんが来てオッパイをくれたり、お尻を拭いてくれたりと世話をしてくれる。とっても怖いんだけど、泣けばお母さんが来てくれる。泣けばお母さんが来てくれる、という体験を何度も何度も繰り返すことで、初めて人は生きていけるんだという安心感を得ていくんです。
 ところが、泣いてもお母さんが来てくれないとか、お母さんや、お父さんにしょっちゅう怒られるとか、両親がいつも喧嘩しているとか、何かの都合で親戚の家に預けられてしまったとか、幼いころに何かしらハッピーでない環境で育てられると、子どもはなぜか『それは自分が悪い子だから』と思ってしまうんです。だからいい子にならなければいけない。ちゃんとしていないといけない。いい子でないと自分は捨てられてしまうと、そんなふうに思ってしまうんです。
 そして、一度そう思ってしまうと大きくなってもその意識は抜けなくて、いつもいい子にして。仕事も何もかもきちんとしていないと不安になってしまうんです。のんびりお茶したりしていると、何かサボっているような気がして、いつも何かしていないといけないという気持ちに追い立てられてしまうんです。
 それに、人間関係の出発点はお母さんとの関係なんですが、このお母さんとの間に心から安心できるという関係が築けなかったために、大きくなって友だちができても心から信頼することができないんです。普通なら昨日まで友だちなら今日も友だち、明日も友だちと、ごく自然に信じられるのに、毎日顔色を見ては『今日は○○ちゃん、大丈夫かな?』と確認しないと不安になってしまう。そして、何かいつもと違うと感じると『何か悪いことをして嫌われてしまったのかしら』と思って、絶交と言われないうちに自分から離れていってしまう。だから、なかなか友人関係がつづかない。
 心のどこかに『私なんて生まれてきてはいけなかったんだ』という思いがあって、だから、なんとなく死にたいとか、死んでもいいやという気持ちが漠然とあって、いつも頼りなくて、だからこそ誰か自分を、自分のすべてを受け止めてくれそうな特に異性に出会うと、全面的に頼ってしまう。でも、そんなふうに頼ると、相手の負担が重くなって長つづきしない。
 どうです?ご自身を振り返って、思いあたるところはありませんか?」

 そうした想いを持つ人達が、受診することで少しでも心が軽く、緩解していけるといいのだが。