“静かなるBPD”

ググっているうちに川谷医院の川谷先生のブログにたどり着いた。

http://kawatani.sblo.jp/article/175167219.html

ここでは先生の造語である、”静かなるBPD”について触れられている。

自傷や暴力などが目立つ典型的なBPDを“荒々しいBPD“として、それに対して近年目立ってきた印象のものを“静かなるBPD”とされている。前者が人に近付こうとし、「見捨てられ不安」によって問題が現れるものに対して、後者は対人関係そのものを避けようとし、表に問題をあらわしにくいという。

BPDを特徴づける「見捨てられ不安」を巡る諸問題、つまりそこから生じる不安定な対人関係よりも対人関係を避けようとする“静かなるBPD”が登場してきているのも見逃せません。

新たに治療の難しい“静かなるBPD”が出現するようになったのがBPD治療の現在です。それは“荒々しいBPD”の治療困難性とは大きな違いが見られます。前者は治療関係がなかなか深まらないために表面的な症状の改善、一見すると良くなったかのように見えます、とともに治療を去っていくのでパーソナリティ構造の再構築の治療過程が置き去りにされたままになるので治療が難しいのです。“荒々しいBPD”では繰り返される衝動的で自己破壊的な行動や近しい人たちへの攻撃といった表に現れる華々しい行動化のために巻き込まれた周囲の人たちが医療機関への受診を促すのとは反対に、“静かなるBPD”では周囲を巻き込むことは少なく、傍の者には症状が外に現れないために良くなったと安心してしまうのです。それは主治医との関係でも繰り返されます。“静かなるBPD”の患者さんは表に現れた症状が影を潜めると主治医との治療を避けてしまうのです。残された私たちには現実生活で困って再び受診される日を待つしかないのです。

“静かなるBPD”では症状が現れにくいので、治療も進みにくいらしい。

再度、“静かなるBPD”と診断されたカルテを読み直してみました。その特徴はある現実状況では外面的には普通の健康な人たちと何ら変わらないパーソナリティ部分と内的には病的なパーソナリティ部分が互いに行き来することなく共存していることです。前者を「偽りの自己」と呼んでもいいでしょう。

普通に見える内に病的な部分を持ち、行き来していると言う。

“荒々しいBPD”との一番の違いはパーソナリティ機能の中の対人関係領域に現れます。“静かなるBPD”では対人関係を回避する傾向が強く、親密な関係を気づくのを避けています。一方、“荒々しいBPD”では山嵐ジレンマと呼ばれる不安定な対人関係が特徴で「見捨てられ不安」に支配されています。一人でいるのは空しく、自分を支えきれないために人を求めるのですが、一緒にいると相手から見捨てられるのではないかと極度の不安に襲われしがみつくと同時に相手が自分を見捨てようとしているという信念のもとに怒りが爆発して関係を壊してしまう。一人になるのも怖い、かといって誰かと一緒にいることもできない、というジレンマに振り回されるのが“荒々しいBPD”の特徴です。
 一方、“静かなるBPD”では見捨てられ不安は小さく、むしろ日本人に特徴的な「他人から良く思われたい。嫌われたくない」という心性が強い。だから、主治医との関係も“荒々しいBPD”のように不安定になることは少なく、関係が深まらないように一定の距離を保ち続けていくのです。彼らは対人関係に非常に臆病なのです。それだけに思春期を通して他者とぶつかり合って他者を通して自分を見るという客観性を育てることに失敗し、現実の一部を切り取り主観的に見てしまう傾向が優位になるのです。それはときに信念とよんでもいいような生き方にもつながっていくのです。

“静かなるBPD”はおそらく、高機能型BPDと重なる部分のあるものと思われるが、それにしては随分弱々しい印象を持つ。日本的な環境を背景としたものと言うことのように読める。

 そして中学生になって対人緊張を強く感じるようになって社交不安症と診断がつくような精神状態に追い込まれ、その多くは高校生になって精神科や心療内科のクリニックに通院し始めるのです。(社交不安症については精神科読本シリーズ17『社交不安症』に詳しく述べています。)その苦しみを「人から自分がどう見られているのか怖い。拒絶されるのではないかと緊張してしまう。なので皆から一人私だけ浮いてしまっている。人とは距離をとって、自分の思いは口にしないようにしている」と語った人がいました。頭痛や吐き気などの身体症状を伴っていることが多く、最初に小児科・内科を受診される人が少なくありません。当然、不登校や高校中退を余儀なくされます。通信制高校をやっとの思いで卒業するなど社会達成度も低く、大人社会で生きていく社会適応能力も身につかないまま思春期を生きていくのです。主観的には、高校生の頃から自分がよく分からないといった不安、自責感の強い抑うつ、慢性の空虚感が支配的になり、空しさを打ち消すために自傷行為や大量服薬といった自己破壊的行動が時折見られるようになります。そのことにお母さんが気づいても“荒々しいBPD”と違って「心配ない」と明るく笑うので、お母さんもそれ以上踏み込むことをためらってしまいます。“荒々しいBPD”のように他者を巻き込むようになるのは生活が破綻した時に限られるのです。

 そして進学や就職といったアイデンティティを問われる状況で混乱が大きくなり、親には秘密にすることが多いのですが、ストレス下で解離状態を呈するようになる人も現れます。さらに、どう生きていってよいか分からなくなり、対人関係も希薄で空虚感を埋め合わせるかのように多数の異性と性関係もつなど、いよいよ混乱も大きくなって大量服薬などの自殺企図が勃発してBPDの特徴が表に現れていくのです。

症状が現れにくいのなら社会適応性も高いと言えるが、早い段階で体に問題が表れたり社交不安症などとして治療に現れる。しかし治療が充分に進まず問題があるままになってしまうので、ストレスの高い場面でBPDの症状が現れるというものであるらしい。

 

典型的なものばかりを考えると、BPDは理解しきれなさそうだ。もともとBPDは他に分類できないものを境界にあるものとして独立した診断名を与えたものであり、実際には多様なものを含んでしまうのだろう。他の精神疾患を併発していることが多いという言い方をするが、むしろいくつかの疾患が混じり合ったものと言うべきなのかも知れないと感じる。BPDの特徴である「見捨てられ不安」が弱いと言われてしまうと、それはそもそもBPDなのか、という気すらする。

DSMの診断基準を満たさないがBPDとしての特徴を備えている予備軍(論文ではよくBPD周辺群などと書かれているようだ)は多そうに思える。

BPDの典型的な症状がなくても内に問題を抱えており、ストレス下では症状が強く表れてしまう人がいると考えると、BPDには思えなかったのにそうだったのかと納得がいく例もあることだろう。

普段の言動ではBPDに思えない人であっても、突然症状を顕わにしてしまうことはあるわけだ。つねに傍にいることを要求したり、時間を選ばず電話やメールをしたり、返答を要求するような、なりふり構わない執着・しがみつき行動はBPDの典型行動であるはずだが、“静かなるBPD”では対人関係に距離を置くというのでそれも目立たなさそうだ。それでいて自傷、自殺企図などの行動が出てしまう。

 

 

 

親しくなろうとするBPDの行動

自分の知るBPD傾向が強かったと思われる複数の人はいずれも、理想化し自分が近づきたいと思った相手に、ちょっと過剰と思われるほどの親愛の情を示した。

ある一人は初対面でありながら異常なほど親しく接するのをみて、会って5分でこの人は何かがおかしいと思えたほどだった。

中にはいきなり体の関係を許容する人もいるらしい。

その内側では、寂しさを抱え、ひたすら親しくなりたいという欲求が渦巻いているという。それが衝動的に自分自身を解放して見せて近寄せようとしてしまうのだろう。特に理想化した対象に対して理想的な人として見せようと懸命に振る舞ったりする。

不幸な過去を伝えたり、誇張したり、嘘を交えたりもする。とにかく自分に強い関心を向けて欲しくて懸命になる。

その欲求表明自体には嘘はないのだろうが、それは突然裏切られる。

BPDの人にはその中に二極思考がある。全面的に支持して親しくなろうとするが、必ずと言っていいほどその後どこかのタイミングで全面否定に転ずる。そのきっかけ相手の問題のある行動だったり、取るに足りないような一言だったり、自分自身の妄想だったりする。

その結果、それまでの強い親愛を示す態度から突然、暴力や非難などの攻撃に豹変したりする。自傷を行ったりもする。

極端に両極に振れる感情、価値観。BPDの人を理解するためには、中心となる見捨てられ不安とならんでこの二極思考をよくとらえておく必要がある。

 

この二極思考は自分自身にも向けられ、自分を万能のように感じたかと思えば最低の人間だと落ち込んだりする。

他人にも自分にも不安定であり続ける。

そういう極端さがBPDだとこころえて対処せねばならない。

 

家族会ゲストブックから

[01385]病院/カウンセリングで治る人、治らない人 返信 削除
投稿者:z
投稿日時:2017/09/03 18:04:18
BPDに苦しめられている家族にとって、
病院やカウンセリングにさえ行ってくれれば、何とか治るかもしれない。
と希望を持って耐えている方がほとんどと思います。
実際、私もそうでした。しかし、今は、この人は一生無理だと断定しています。

では、治る人と治らない人とは、どこがどう違うのか?について、
主観的ではありますが、自分の経験に基づいて書きたいと思います。

(中略)

最終手段をとりました。大学病院です。
会社の産業医には何年も前から相談してましたので、
ようやく紹介状を書いてもらい、本人自身が大学病院に連れていってくれと言い出したときに、その言葉を信じて、仕事を休み、予約を取りに行きました。私にとっては、最後のカードでした。
数日後の診察当日、若い女の先生が予備診察をして彼女からの話を聞き、私も最初の数分だけ診察室でつきあいました。
彼女の第一声はなんと「私はここに来たくなかったが、夫が強制的に連れてきた。来なければ暴力を振るわれるから」でした。
おいおい、数日前と言ってることが違うじゃないか!
と腹立たしくなりましたが、精神科の先生が騙されるはずはない
と思い、信じて外で待ってました。
予備診が終わり、本診察が始まりました。対応してくれたのは、その大学病院精神科の科長の先生。一番偉い教授の先生でした。そして診察結果は、

彼女には医学的な治療は必要無いと判断する。
相談があれば、公的な相談所に行くべし。

結局、薬もカウンセリングも無しに終わりました。
あまりの失望さに言葉を失いました。

激怒したときに包丁を持ったり、薬の服用をしたり、
テッシュにライターをつけるような危険な行為をする人に、
「医学的な治療は必要ない」。
後から、若い女の先生に聞いたら、
DVをしたのは、夫の方だ。とのこと。
おいおい、DVをした夫が仕事を休んで診察に付き合うか? と思いましたが、結局は、有名大学病院の教授が、BPD妻に騙されたのでありました。

病院の診察というのは、せいぜい20分程度です。
BPDはその時間、嘘八百ついて全力で自分を防御します。実は、妻は博士号を持っており、かなりスマートで、それだけにプライドがとても高い。
そういう人は、病院やカウンセリングに行っても治らない。と悟りました。

では、治る可能性がある人とは、どういう方なのか?
やはり、自分自身で病気であることを認め、そして自分自身で病院やカウンセリングに予約し、自分自身で足を運び努力する人でしょう。
そういう人であれば、自然とサポートしてくれる人が増え、病気を克服し、幸せな人生がおくれるのだと思います。

http://bpd-family.jp/FS-APL/FS-BBS/index.cgi?Session=S5ae90f993cca69083&Code=bpd_family&Mode=View11&Page=1

この高機能型BPDの女性は、大学病院の精神科教授にすら、自分の症状を誤魔化しおおせてしまったようだ。

結局、本人が病気を認め、直そうと思わない限りはいくら家族やパートナーが懸命になっても困難。このことはあちこちで指摘されているようだ。

 

BPDは治るのか

遺伝的要因があり、生育環境によって発症すると言われているBPDだが、かつては治らないと言われていた。最近では治ると断言するものもよく見られる。BPDなど精神疾患に見られる海馬、扁桃体などの萎縮は回復可能とも言われる。

しかし、寛解するというのは社会的に適応でき、診断基準を満たさなくなることであって、本人の傾向が大きく変わることではないから、問題は残り続けるのではないかと言う印象を持っている。

このテーマについて家族会のログに次のようなものがあったので引用する。

BPDは寛解するのか?

家族にとってこの質問は大きなテーマであり、その答えに対する大きな期待と関心を持っています。
専門家の意見はまちまちなので当事者も家族も混乱します。
35歳・40歳を過ぎれば自然と「良くなる」とか「治る」という先生もいらっしゃいます。
現に家族会の顧問のBPDの専門家の先生の間でも意見が異なりますから
・・・(苦笑)
しかし、BPDに関わる専門で現役の先生の意見や最新の情報ではやはり、BPDは「自然」に治ることは非常に難しいということでした。
8年前にBPDと診断され、姉を診てくださっている
主治医にも3日前に確認してきました。
「医師によって、BPDは35歳、40歳を過ぎたら、寛解ではなく自然と治る(完治する)と聞きましたが、先生の見解を教えてくださいと尋ねてみました」
BPDを研究している主治医の答えは、
昔の見解は、BPDは35歳を過ぎれば「自然とよくなる」と言われてきたが、BPDはそう簡単に寛解することは難しく、ましてや、治らないことはないけど、そう簡単に治ることは
なお難しいということでした。
治るというのは、歳とともに激しい衝動性や攻撃性は
(落ち着いてくる)ものの、根本的な部分はそう簡単には治らない。現在も高齢者のBPDと診断されて受診している人は当病院にもいるとおっしゃっていました。
普通、30代、40代ぐらいになれば人として
まるくなると言われているけれど、そのような考え方は「一般化」し過ぎている。BPDにはあてはまらない。考え方の癖・行動の修正はそう簡単には変わるものはなく、ちゃんとした治療が必要であるということでした。
つまり、自然に治るという考え方は科学的な根拠が無いということでした。
また、仕事ができていれば「完治」といわれていますが、当家族会でご相談される多くの家族のお話では
仕事はちゃんと果たしているものの、家に帰ると
暴言・暴力(青あざや骨折させるほどの暴力行為)器物損害など
日常茶飯事となっている当事者もいます。
家で大暴れしているのに、仕事ができていれば「完治」していると
いうのは不自然さを感じます。

 

 内容はまだ続くので、リンク先をご覧頂きたい。
 対応の仕方を学び、寄り適切な行動をとれるようになることが望ましいのは間違いない。そのためには本人の努力が重要であるし、サポートなしにはなしえないだろう。
 ともかくも、やはり自然に完治することは考えがたく、治療をしても対応がうまくなるだけで本質が大きく変わるものではないという印象が強い。完治はかなり難しそうだ。
 同じページ内に引用されている研究の結論部分を引用する。
 
本研究結果から、境界性パーソナリティ障害患者における持続的な症状の寛解は、持続的な回復よりも著しく高い割合で認められ、境界性パーソナリティ障害患者における持続的な寛解と回復の達成・維持は、その他の形態のパーソナリティ障害を有する患者と比較して、著しく困難であることが示唆される。

 

BPDは寛解に達することは出来るが再発率が高く、回復状態を持続することは残念ながら難しいようだ。寛解していると言われていても、強いストレス等で症状が現れてしまうこともあるだろう。そんなときの対応を学んで行くしかないのだろう。