解離性同一性障害はBPDの特殊な形態?

あるBPDの傾向を感じる人と接していたとき、顔つき、声、しゃべり方、態度が大きく変わり、突然乱暴な口のきき方をして罵りはじめる。さながら人格交代が起きたのではないかと思うように感じたことが何度かあった。それだけでなく、すくなくとも人格が3つぐらいに感じた。

BPDと解離性同一性障害(DID)は、表面上は似通って見える部分が多い。そのため、誤診も多いそうだし、実際には重なっているのかも知れない。
DIDが明確な人は、完全に交代してしまい記憶が途切れる場合もあるし、自分の中で複数の人格が会話をしたり、他の人格が出ているのを見ている状態であることもあると言う。
多数の人格が同居していると言うことは、常人には理解しがたい。
しかし、最近ではDIDと診断されることが日本でも増えていて(しかし、精神科医でもDIDの理解度はまちまちで、DIDを否定する人もいるらしく、DIDがBPDや統合失調症と誤診されることはよくあるらしい)、先日のエントリーのように、ネットに本人が動画を投稿しているものも見るようになっている。

BPDの人が突然形相を変え、別人のように怒りをぶちまけることはよくあると言うが、瞬間的に攻撃的な他の人格に交代しているケースもあるのかも知れない。

BPDの特殊な形態がDIDであると考える人もいるようだ。


BPD のすべて
著者: ジェロルド・J. クライスマン、 ハルストラウス

DIDは、多数の人格が共存すると言うより、人格が分裂していて一人の多様な部分がそれぞれに現れていると考えているようだ(それが故に今は多重人格ではなく、解離性同一性障害という)。多重人格について我々はビリー・ミリガンのケースを思い浮かべがちで、ダニエル・キースによってドキュメンタリーとしてかかれたものを見て、独立した人格が多数存在しているイメージを持ちがちだ。DIDを自称する人も、別の人格と認識しているようだ。しかしハードウエアは同一だから、その脳の使われ方が人格ごとに変わっているのだろうと想像をしたりもする。一つの脳に一つの人格が育ち、BPDがストレスから守るべく記憶や感情をなくす解離症状がより強くなったものがDIDという解釈も理解できる。虐待などの強いストレスによってDIDが生じている事実は、分裂によってつらい記憶を切り離すことでストレスから待避した結果と考えられる。

解離が見られやすいBPDを考えると、前に取りあげた様な表面的な類似だけではないのかも知れない。

自分が接した人が精神科でBPDと診断されるかどうかわからないのだが、精神的な幼さの一方で、人格様の変化がある人というのは今まで出会ったことがなかった。たくさんの人と出会い、自分の割とセンシティブな感覚で相手の心の動きを感じてきたが、人格の同一性、安定性は保たれている人ばかりだった。突然怒りが爆発する人間は複数知っているが、単に感情がコントロールできないだけで脈絡はあり、同一性は保たれていた。脈絡が読めない人格的な変化が突然起こる人というのは経験が無く、他人の心の動きを感じ取りやすい自分にとって経験の無い唐突な変化は理解不能だった。だから人格の交代を疑ったのだ。それぐらい変化が唐突で激しかった。

他のBPDが疑われた人については、人格が大きく変化するような場面には出会ったことがない。初対面から異常なまでの親愛を示すので危険を感じ、全力で離れたので詳細はよく分からない。感情のアップダウンが激しく精神的に不安定なところがあり、他人をとり込むための都合のよい嘘をつき、不倫であろうがこれと思った他人に依存をし、他人の人間関係を破壊するという典型的な行動があり、あとからBPDをうたがったのである。自分は逃げたにもかかわらず、他人をとり込むために「ひどいことをされた被害者」を装うためのネタに使われ、職場での人間関係を破壊されてしまった。

もっと近い位置であれば人格変化様のものを目の当たりにすることもあったのかも知れないし、単に感情が大きく変わるだけだったかも知れない。それは分からない。

BPDは感情コントロールが出来ないだけなのか、解離性が強く人格交代的な変化が起きているものなのか。BPDの診断基準では区別できない。BPDの人と多く接してみないとそこはよく分からないし、どちらもあるのかも知れない。

 

BPDの人が書いているものを見ても、自我の同一性は保たれているように見え、自己同一性にあやふやな感じがあり、自分のコントロールが効かない極端な価値判断、感情の急峻な変化が起こるために戸惑っているように見える。

もっと解離性の強い人では違うのだろうか。おそらくは程度問題なのだろうと私は思う。人格交代に近い、エピソードは共有しているが、表層を入れ替えて外との対応をしているようなことはありそうに思っている。

しかし、もっといろいろなものを見たり、実際に当人にあってみたりしないと分かりそうにない。