文化と教育の地域格差

 

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由

知られざる「文化と教育の地域格差」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353

 

 

 

千葉の私立高校で教えるようになり、なおかつ自分の生活の中心が千葉になっている今、かなりこの記事の内容が感覚的に理解できる。そもそも千葉に住むようになった中学生時代から、身を持って実感していたことだったとも言える。
もちろん、釧路とは比較にならないほど恵まれているとは言えるのだが、構造は全く同じだ。触れられないものが多い世界というのは、触れていることがあたり前のものには理解しがたいだろう。

千葉市は東京から数十kmしか離れていないが、文化的な隔絶はすさまじいと感じる。私が住む京葉線沿線、更に私が住む幕張ベイタウンは千葉市の中ではかなり異質な地だが、少し内陸に入るともはや別世界である。文化的に隔絶され、新陳代謝が止まり、劣化し衰退するばかりの地域が目立つ。そこだけで過ごしていれば、肌で触れられるものが東京とは全く違うのだ。

東京で生まれ東京で育ち、目黒、品川、恵比寿、渋谷と中央線沿線になじみが深い自分には東京の文化圏の良好な文化アクセス性の中で多くの時間を過ごしていた自覚は乏しかった。
中学生の時に千葉市に引っ越してきて何より困ったのが図書館がないことだ。公民館の図書館分館ではあまりに蔵書が少なく偏りすぎている。そこそこの図書館は自転車で30分もかかる。その他、文化施設、ホール、講堂の類も、イベントもほとんど存在しないかあっても子供にはおいそれといけぬほど遠いところにしかなかった。
そして地元の子供たちの東京コンプレックスと偏見のすさまじさは、ここが東京とは全く隔絶された異界の地であることを如実にあらわしていた。彼らが直に触れられるものが都内を生活の場にしている者のそれとは全く違うことに当時はあまり思いが及ばなかったが、僅か数十kmがとんでもなく大きなものなのであった。

あたり前のことがあたり前でない世界と言うのは、想像することは難しい。
この記事が執筆されるきっかけになった下に引用するツイートは、あたり前のことがあたり前でなくなる経験をした身には理解できる。

今接している生徒たちの多くは、乏しい文化にしか触れないまま、接するものを選ぶ余地もないまま大人になっていくのだろう。同じ年齢であっても、育った地によって極めて大きな格差がある。それは東京とその近郊という僅かな距離の違いだけでも厳然と存在する。地方に至っては絶望的に大きいだろうと想像できる。

————-ツイート引用
家庭が貧しいと教育が受けられず貧しさが再生産されるという話、もちろん大問題だけど、同時に知ってもらいたいのは、教養のない田舎の家庭に生まれると、たとえ裕福でも教育には到達できないってこと。教育の重要性じたいが不可視だから。文化資本の格差は「気付くことさえできない」という点で深刻。
————-ここまで