うつ傾向?

自分は職場での長年の問題や、地域での大活躍の後に起きたいくつかの重大な裏切りやいくつかの問題などによってかなり生きるエネルギーを失っていた。

自宅内は荒れて、物事にやる気が起きず、それでもなんとかその時々で自分を奮起させて何とか生きてきた。

しかし、昨年末に起きた(その後考えれば)BPDらしき人が長年の疎遠から再登場したことでの「あげさげ」でかなり傷ついてしまった。その後はBPDについて調べたり考えたりすることでそれをエネルギーにしてきたのだが、それもそろそろ自分の中でカタが付きつつある。そのことでこのところ自分を支えてきた前向きなエネルギーが底付きつつあるようだ。

このままエネルギーを確保できないと危険だと感じる。歳をとり、今後によい方向への改善を期待しがたくなってきて、さらに政治を理由とする日本のあまりにもひどい状況に絶望し、気分は落ち込むばかりだ。

ふと、この状態は【うつ病】に近いのではないかと考え、いくつかのうつ病チェックをしてみると答え方によって、うつ病ではないがうつ病傾向というものから軽~中度、さらには重度のうつ病となるものもあった。同じものでも答え方によってはうつ病を否定されてしまうこともあるのだが。

少なくともメンタルは一時よりよくない状態になってきているらしい。

典型的になうつ病には合わないと感じている部分が多いものの、傾向としては抑鬱症状が現れていることを認めざるを得ない。

この所、体にじりじりと軽くしびれた感じがあり、今、急にキーボードを打つ左手に震えが出てきたので、自律神経失調傾向も出てきたのかも知れない。自律神経失調症はストレスによって起こる。今の自分の状況ではストレスを感じているのは間違いないから、身体症状として表れてきたのかもしれない。

ストレスを減らし、リラックスに努めると同時に、なにか夢中になれることを探す必要がありそうだ。

うつ病について研究してみるのも、少しはエネルギー確保に役立つかも知れない。もっとも、BPDのように理解しがたいものではないので、あまりエネルギーを費やすものではないだろうが。

気分改善には薬という手もあるのであるが。典型的なものがプロザックだ。スマートドラッグとしても知られる、アメリカを中心とする海外では非常にポピュラーで、ほとんど日常的に使用されるSSRIの抗うつ薬だ。本来の抗うつ薬としてではなく、多幸感をもたらし前向きになるための、一種の心のドーピングに使われている実態がある。日本では未認可薬ではあるが、個人輸入でかなり入っているらしい。100錠で3000円弱程度なので気軽に購入されているようだ。

アメリカでの実態は、製薬会社と医師の関係まで含めて論じた以下の記事も参考になろう。

米国人にとって抗うつ剤はキャンディも同然?――日常化する服用
堀田 佳男

日経ビジネスオンライン

 

なお、SSRIはシナプスにおけるセロトニンの再吸収阻害をすることでセロトニンを増やし、セロトニンの放出量が増えた状態を擬似的に作り出す。副作用は少ないながら過剰摂取でセロトニン症候群を引き起こすことも知られている。

抗うつ剤依存については、たとえば次の記事も参考になろう。

競争社会向けのドーピング剤、処方しましょうか?~『やめたくてもやめられない』
片田珠美著(評:三浦天紗子)

日経ビジネスオンライン

セクハラ

いくつものセクハラ問題が表面化し取りあげられている。

ある人は、30年前のアメリカの状況と同じ、30年遅れているという。

詰まるところ、多くの社会において、女性蔑視、女性を性の対象としてのみみて人格を軽んじるようなことは行われてきたわけだ。

何故男性優位になりやすいのか。男性中心の社会が形成されやすい理由は何か。

ヒトに近い類人猿で言えば、チンパンジーはオス中心、ボノボはメス中心の社会構造を作る。ヒトはその点ではチンパンジーと類似性があるのかも知れない。前者は極めて暴力的、後者は性愛による平和的な行動が見られる。サルの研究者曰く、チンパンジーのメスにだけは産まれたくないと言うぐらい、暴力的な扱いを受けるという。

筋力、体力において優位であるからというのは大きな要因であろうが、ボノボのメスがオスよりこれらが勝るわけではないだろう。ボノボにおいてはオスが群れに残りメスが群れを移動する父系社会であるにも関わらず、メス同士の連合によってオスの暴力に報復し、メスの優位を作るらしい。

 

ボノボのメス達は手を組んでオスの暴力に対抗する
―メス優位なボノボ社会が進化した根源を考える―
(京都大学霊長類研究所)

http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2016/documents/160719_1/01.pdf

メスが優位になる場合、メスの血縁関係が中心となる母系社会であることが多いが、ボノボはそうでないため、非常に興味深い。

ヒトの場合、女性優位の社会を作る例があるかも知れないが少なくとも現代では極めて男性優位であるように見えるし、男性の行動には多く女性を下に見ていると思われる行動が多いという感想を持つ。セクハラ問題についてのネットでの反応には、根強い男性による女性蔑視が見て取れる。

どう考えても、女性の同意なく何かを強要することはおかしい。ましてや力関係などを背景として根本的に性別関係なく許されることではない。しかし、なぜか男性から女性に性的強要をすることについて、寛容になりやすいように見える。チンパンジーの如く、ヒトという種が進化の中でもっている傾向であるのかも知れない。

現実に、女性に比べて暴力的で性欲が強い男性という存在自体が女性にとってリスクの高い存在であることを認識する必要はあるだろう。そういうことを考えなくればいけないこと自体がおかしいと言ってみたところで、本質が変わるわけではない。

その上で女性の尊厳が守られる状況を作らねばならないのだろう。本質的に男性の多くは抵抗する存在であり続けると思われる。日本社会は明らかに遅れているので、今より状況を改善させることは可能なはずだ。

しかし、男性任せでは実現は困難だろう。ボノボではないが、女性の連合が力をつけない限り、なかなか実現は難しいのかも知れない。

 

文化と教育の地域格差

 

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由

知られざる「文化と教育の地域格差」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353

 

 

 

千葉の私立高校で教えるようになり、なおかつ自分の生活の中心が千葉になっている今、かなりこの記事の内容が感覚的に理解できる。そもそも千葉に住むようになった中学生時代から、身を持って実感していたことだったとも言える。
もちろん、釧路とは比較にならないほど恵まれているとは言えるのだが、構造は全く同じだ。触れられないものが多い世界というのは、触れていることがあたり前のものには理解しがたいだろう。

千葉市は東京から数十kmしか離れていないが、文化的な隔絶はすさまじいと感じる。私が住む京葉線沿線、更に私が住む幕張ベイタウンは千葉市の中ではかなり異質な地だが、少し内陸に入るともはや別世界である。文化的に隔絶され、新陳代謝が止まり、劣化し衰退するばかりの地域が目立つ。そこだけで過ごしていれば、肌で触れられるものが東京とは全く違うのだ。

東京で生まれ東京で育ち、目黒、品川、恵比寿、渋谷と中央線沿線になじみが深い自分には東京の文化圏の良好な文化アクセス性の中で多くの時間を過ごしていた自覚は乏しかった。
中学生の時に千葉市に引っ越してきて何より困ったのが図書館がないことだ。公民館の図書館分館ではあまりに蔵書が少なく偏りすぎている。そこそこの図書館は自転車で30分もかかる。その他、文化施設、ホール、講堂の類も、イベントもほとんど存在しないかあっても子供にはおいそれといけぬほど遠いところにしかなかった。
そして地元の子供たちの東京コンプレックスと偏見のすさまじさは、ここが東京とは全く隔絶された異界の地であることを如実にあらわしていた。彼らが直に触れられるものが都内を生活の場にしている者のそれとは全く違うことに当時はあまり思いが及ばなかったが、僅か数十kmがとんでもなく大きなものなのであった。

あたり前のことがあたり前でない世界と言うのは、想像することは難しい。
この記事が執筆されるきっかけになった下に引用するツイートは、あたり前のことがあたり前でなくなる経験をした身には理解できる。

今接している生徒たちの多くは、乏しい文化にしか触れないまま、接するものを選ぶ余地もないまま大人になっていくのだろう。同じ年齢であっても、育った地によって極めて大きな格差がある。それは東京とその近郊という僅かな距離の違いだけでも厳然と存在する。地方に至っては絶望的に大きいだろうと想像できる。

————-ツイート引用
家庭が貧しいと教育が受けられず貧しさが再生産されるという話、もちろん大問題だけど、同時に知ってもらいたいのは、教養のない田舎の家庭に生まれると、たとえ裕福でも教育には到達できないってこと。教育の重要性じたいが不可視だから。文化資本の格差は「気付くことさえできない」という点で深刻。
————-ここまで

国会をとりまくデモ

デモを歩道に押し込み危険な状態から、ついに柵が決壊。国会前になだれ込んだ。

デモをあえて流そうとしなかった一時と違い、メディア各社が報道。

ようやくここまで来たか感。

だが安倍内閣が総辞職したとしても、政治的にも経済構造的にも国民生活的にも、目も当てられないほどに劣化した日本が改善する見込みは低い。絶対安定多数にあぐらを掻く自公政権が終焉を迎えたとしても、日本を立て直す難業を誰が担えるだろうか。

日本はどこへ行くのか。明るい未来を想像するのは難しい。

ばたばたと…

急にいそがしくなった。

ダブルワークで進学塾でも教えることになるのだけれど、その研修等が入って来る。3月からは授業をもつことになる見込み。

一方で、寝室のフローリング化作業を暇を見つけてはやっている。これを終わらさないと家の中が正常化しない。

はたまた、精神疾患等に関する本を何冊も買ったのに読んでおらず、すこしずつ目を通しているがなかなか進まず。

なんだか気ぜわしくて大変だ。

LINEゲーム ツムツム

最近LINEをやるようになったものの、たった一人としか繋がっていなかったし、妙にごてごてととり込まれているいろいろなあれこれは自分には関係がないと思っていた。結局LINEは一人の相手とチャットをするだけにしか使っていなかった。

ただ、繋がっている相手がよほど暇なときにゲームをやっているらしく、希にだがハイスコアがタイムラインにポストされる。

あまり興味はなかったがダウンロードして遊んでみると、単純だが、まあまあはまるゲームだった。

ディズニーのツムツム

 

一種のパズルゲーム。ディズニーキャラクターの「ツム」を指でなぞってつなぐと消える。これを一定時間内でどれだけ消すかというゲームだ。

しかしながら、最近のこの手のゲームは昔の様に単純ではなく、いろいろなアイテム?のようなものを駆使して得点を伸ばす要素がある。そのアイテムはコインを集めて買う。コインはゲーム内で獲得できる。

自分としては単純な方が純粋にテクニックを身につけてスコアを伸ばす楽しみがあって、コインを集めるとか何とかで突然ハイスコアが得られてしまうみたいなものは邪道な気がする。

コインも、友達を誘うともらえるとか、なんかネズミ講式でよろしくない。

そして、重要なアイテムはお金でも買えるようになっている。金がものを言う世界である訳だ。いかにも今どきのオンラインゲームにおけるビジネスモデル同様になっている。

***

つまらないところでは、可愛いキャラクター達をなぞって「消す」というのはなんなんだろうと思ったりも。爆破してみたりもする。

冷静に考えると結構恐ろしいゲームだなあとか思ったりもした。

 

医師の自殺

突然変な話になるが、医師の自殺。

今日検査のために行った病院で、睡眠時間を削っていることについて、働き過ぎは精神を病んでしまうという話をされた。

その引き合いに出されたのが医師の自殺だ。担当の医師は外科出身なのだが、親しい友人を二人自殺でなくしているという。一人は20代で。

医師の勤務状況は、科によって大きく違うが、外科や産科は特に過酷と聞く。当直で泊まり込んでほとんど睡眠時間なくもうろうとした状況で業務をこなしていると。外科だと、本来の休みの日にも出勤して、自分がメスを当てた患者を見に来るとか。年間の実質の休日が5日間とかざららしい。産科だと深夜でも呼ばれてでていくことはざら。以前産科の女医との縁談があったが、相当に過酷で、二人しかいない医師の後輩が結婚退職でやめてしまい、主任の当人はもう結婚どころではないとして縁談を断ってきたということもあった。

当直は、実務がない待機時間は労働時間と見なさなかったりするし。タイムカードの管理も実際の勤務状況を反映しないものになっていたり。

医師自身もそういっためちゃくちゃな勤務状況をあたり前だと思っていたりもする。

最近になって、「あれ、俺たちちょっとおかしいんじゃない?」という声を上げるようになったり、労基の指導が病院に行われるようになってきて、状況は変わって来つつあるようだが。海外との勤務状況や待遇の差が取りあげられることも増えてきたような気がする。同じ医者になるならアメリカなどに行った方が遙かに働きやすく、対価もよい。これについては以前みんカラの方で書いたことがある

勤務医なら、アルバイトなしでも1000~2000万円ぐらいの収入があるので、対価はそれなりのものがある。勤務の待遇も改善傾向。アルバイトは収入は1日10万円を大きく超える。勤務医でもかなりの収入になるが、開業医なら美容整形などでは3000~4000万円とかも珍しくない。今どきは自宅開業はほとんどなく自宅から離れたところに開業するので、定時に終えることが多く、急患で往診を頼まれるようなこともなくなっているようだ。昔のイメージとは随分変わりつつあるらしい。

医者のありようも様々だ。似非科学を信奉するトンデモ医師もいるし。

 

ヘルマプロディートス

自分は生物学的には男性として生まれている。機能的には間違いなく男性。

ただ、あまり筋肉はつかない体質だし、子供の頃から痩せていたのに皮下脂肪がやや多め。特にお尻が大きい。

男性の体型としてはちょっと標準的ではなさそう。

では心はと言えば、男性ではあるのだけれど、女性寄り。男性一般とは感覚があわず、どちらかというと女性の感覚に近い感じがある。知りあいも圧倒的に女性が多い。特に群れている男性がとても苦手だ。

 

だからと言って性同一性障害かというとそういうことではない。

小学校一年生ぐらいの時、NHKでルーブル美術館という番組を放送していた。そこで取りあげられていた『眠れるヘルマプロディートス』という彫像を見てはっと気付いた。これは自分だと。

ご存じの方も多いだろうが、これは両性具有のギリシャの神ヘルマプロディートスである。

Wikipediaから引用してみよう(上の写真もWikipediaからの引用)

ヘルマプロディートス古希ἙρμαφρόδιτοςHermaphrodītosラテン語Hermaphroditus)とは、ギリシア神話に登場するである。ヘルメースを父に、アプロディーテーを母に生まれた頗るつきの美少年であったが、水浴びのさなかにニュンペーサルマキス強姦され、文字通りに一つに合体して両性具有者となった。

ヘルマプロディートスの名は、両親にちなんでいるだけでなく、美しい女体をもった美少年(ヘルメースにしてなおかつアプロディーテー)という意味も持つ。また、「両性具有」「雌雄同体」を意味する “hermaphrodite” という語の語源でもある。日本語では長母音を省略してヘルマプロディトスとも表記される。

幼い頃の私は、既に自分が男性として生まれながら女性的な要素を強めに持っていることを意識していたらしい。肉体的には男性だが、精神的には両性具有的だと自分で感じていたようだ。

だからどうも男の子とはいまいちウマが合わず、幼い頃は女の子と遊ぶことが多かった。お人形遊びとかをしたかったようだ。しかし、女の子の家へ遊びに行ってもいつも男の子の人形で男の子役をさせられてつまらなかった。

しかし、自動車とか男の子のおもちゃも好きだし、心は完全に女性と言うことでは全くなかった。

時々、女の子とばかり一緒に過ごし、女の子から女の子扱いされている男の子というのがいるが、自分とは明らかに違う、と感じていた。

基本的に粗暴な男の子の集団に対する嫌悪感が強かったので、可愛くて優しい女の子と過ごすことを好み、男の子と女の子選べるとしたらどちらを選ぶと聞かれたら、女の子と答えていた。

実際には選ぶことは出来ないから、自分は男性であるものの、女性的要素が強い両性具有的な人間であると思ってきたようだ。

ただ、幼い自分は女の子の方がいいと思っていて、自分がそうであるように、男の子というのはみんな女の子になりたいのだと思い込んでいたのだ。しかし、他の男の子は全くそんなことはないと否定していた。なんで隠しているのだろうとすら思っていた。それぐらい自分にとっては選べるなら女の子になりたいという感覚はあたり前のものだったようだ。

生徒からも、お姉さんか妹がいるでしょ?とよく言われたが、うちには兄がいるだけで、唯一の女性である母親は、当時の女性としては背が高めで真っ黒い男性用自転車に乗っているような、あまり女性らしさを前面に出さない人だった。女性的要素は生まれもってのものらしい。

昔Niftyserveやインターネットでイラストを発表していた頃は、イラストや文章から女性と思われることも多かった。

 

日本でも性同一性障害が認知されるようになり、遅ればせながら法整備も進んだ。

しかし手術をしたところで生物学的ベースは男性であることは変わらず、真に女性になることは出来ないし、そこまでして女性として生きたいとも思わない。自分の心が女性そのものであると言うことはないのだから。

自分はどうもどっちつかずな存在ではあるけれど、女性をより理解できる点で存在意義はあるのだろう。

 

対話と会話

(みんカラからの転載)
 対話と会話は、似通っているが、意識して異なる意味に使われることが多いように感じる。
辞書(大辞林 第三版)によれば

対話
 双方向かい合って話をすること。また、その話。比喩的にも用いる。 「 -しようと努める」 「親子間の-」 「歴史との-」

会話
① 二人または数人が、互いに話したり聞いたりして、共通の話を進めること。また、その話。 「 -を交わす」
② 特に、外国語で話し合うこと。 「英-」

となっており、対話が相対する人同士のやり取りの内容に重きを置いているのに対し、会話はやり取りそのものを表すニュアンスを感じる。

 ネットでググるとやはりそうしたニュアンスでとらえてこのふたつの概念を対比させているものがある。

***

 長年疎遠だったある人から声をかけられ、以来FacebookのメッセンジャーやLINEなどでやり取りをしていた。確かにやり取りがあり、楽しいと感じたり、おかしげなプレッシャーを与えられ半ば強引に相手の意図通りのことを答えられさせられたりしたものの、ふと後から振り返ると、結局何も本質的なことを話せていなかったな、と思った。会話はあっても対話になっていなかったなと。

 たとえば、恋人同士であれば、何をやり取りしても楽しい時期があるだろう。相手を勝手に美化したり、やり取りしているという事実が感情を高めてしまったりする。しかし、気付いてみれば二人の関係、将来について話し合うわけでなく、単にやり取り、会話に酔っているに過ぎなかったりする。
 そういう時期を過ぎると、お互いの関係を前向きに進めていくための対話がはじまる。場合によってはそのあたりで別れがあるかも知れない。ともかくも、お互い相手を見詰め、相手と自分の関係をしっかり考えて、確認していくようになる。単なる会話ではなく、将来を見据えた対話になっていくのだ。

***

 会話をしても、対話が成り立たないというのは、そもそも相手のことを考えたり尊重したりしていないからなのだろう。
 初期の恋人同士の会話は、自分の脳の中にいる相手と会話しているようなもので、ほとんど相手のことなど見ていない。脳が本来の感覚を麻痺させて快感に酔いしれる状態を作ってしまっている。冷静に相手のことなど見ていない。
 それを入り口に関係が出来ていくのだから、ヒトとはそう言うものなのだろう。そうやって男女が引き合うように出来ているらしい。扁桃体やらA10神経やらが我々をそういう方向にコントロールしている。
甘い会話の快感に酔いしれる時期を過ぎると、いよいよ人間としての関係を煮詰める時期に入る。冷静に物事を考えられるようになる。
 相手を尊重しつつ、自分の思いを整理したり主張しながら、関係を作っていく。ここには対話がなければどうしようもない。
 いくら相手が自分の思うような存在ではないと思ったところで、本当にそうかどうかも対話してみなければ分からない。対話によって自分が思っていることとは違う、前向きな発見もあるかも知れない。そうして関係を成熟させていく。

 ベターハーフという言葉がある。

 本来は、1つだったものが別れて別々になった存在。それがもう一度一つになる。それが夫婦であると。
 しかし、現実にはそんなことはあり得ない。そんな都合のよい存在に出会うことなど、まずないだろう。この人こそベターハーフだと思っても、それはほとんどの場合勘違いだ。ビビッと来た人と結婚して幸せになるというのはかなり難しいだろう。
 結局、ベターハーフになるしかない。お互いの努力によってよりよき相手になっていくしかないのだ。そこでは相手を理解し、相手と対話を続けて行くしかない。
 そこにたどり着けない相手はもちろんいるし、その相手にいくら頑張ってみても仕方が無い。好きという感情と、パートナーとしてやっていけるかどうかは違う。
どうしてもうまく行かないなら、あきらめて新たな相手を探すしかない。どちらかが自分の感情だけに埋没してストーカー化しても仕方が無い。

 知りあいの中には、精神的に病んでいる時期に出会った、特段愛情をもてなかった相手と結婚し、その相手によって病んだ状態から見事に立ち直ることができた人もいる。相手の愛情と互いの努力によって救われたのだ。もちろん、本人に聡明さがあったからこそ自分を見つめ直すことが出来たわけで、本人が自覚しない限りはおそらくうまくいかなかっただろう。乗り越えるためには自分の問題に向き合う非常に苦しい時期があったと言っていた。そこを支えたのが相手の人であったわけだ。

 恋愛感情など単なる入り口に過ぎない。その向こうを見据えることが出来てこそ関係はなり立つ。

***

 しかし、損得勘定や共依存を求めて相手を決めて、そのまま精神的に不幸な結婚生活を続けている人を知っているし、あっという間に関係が崩壊したような人も知っている。結局人同士をつなぎ止めるのは愛情なのだろう。
 そもそも共依存なんて、絶対に関係がなくなることがない親子関係でしか成立しない絶対的強制的支配関係だ(虐待の中で成立する異常な関係)。全くの他人との間にもとめても必ず破綻するに決まっている。
ステップアップの中でしか、関係は深められそうにない。最初から完璧な相手、完璧な関係などあろうはずがない。会話ではなく、対話の中で作り上げていくしかない。

 なんの対話もなく、ただ都合のいい相手はいないかと追い求めることは、メーテルリンクの「青い鳥」になぞらえて、俗に青い鳥症候群などという。

***

 いくら会話が楽しくても、対話がなければ人間同士の関係は深まらない。
 これは男女に限らずだ。
 日本人は対話を嫌がる傾向が強い。空気を読め、察しろという。これは最近になっても変わらないし、KY(空気読めない)などとむしろ若い世代でも強く意識されるようになっている。
 その結果、ひどく議論が下手で、同調圧力の強いムラ社会ばかりがそこかしこに構成され、同調しないものは人格攻撃で貶めることがあたり前になっている。
 今や、社会一般にこういうことが広く見られるようになっている。その結果、自分たちと違うと感じるものを激しく攻撃したり、排除しようとしたり、言葉で貶めたりする。

 日本のメディアだけ見ても気がつきにくいが、日本は国際的に孤立しようとし、経済的には完全に取り残されている。今や中国の遙か後で、なにかと下に見てきた韓国の後塵を拝する状態になっている。

 この日本の現状は、自分たちの価値観に閉じこもり、その場限りの会話ばかりを重視し、かんじんの対話のなさに起因しているように思われるのだが。