対話と会話

(みんカラからの転載)
 対話と会話は、似通っているが、意識して異なる意味に使われることが多いように感じる。
辞書(大辞林 第三版)によれば

対話
 双方向かい合って話をすること。また、その話。比喩的にも用いる。 「 -しようと努める」 「親子間の-」 「歴史との-」

会話
① 二人または数人が、互いに話したり聞いたりして、共通の話を進めること。また、その話。 「 -を交わす」
② 特に、外国語で話し合うこと。 「英-」

となっており、対話が相対する人同士のやり取りの内容に重きを置いているのに対し、会話はやり取りそのものを表すニュアンスを感じる。

 ネットでググるとやはりそうしたニュアンスでとらえてこのふたつの概念を対比させているものがある。

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 長年疎遠だったある人から声をかけられ、以来FacebookのメッセンジャーやLINEなどでやり取りをしていた。確かにやり取りがあり、楽しいと感じたり、おかしげなプレッシャーを与えられ半ば強引に相手の意図通りのことを答えられさせられたりしたものの、ふと後から振り返ると、結局何も本質的なことを話せていなかったな、と思った。会話はあっても対話になっていなかったなと。

 たとえば、恋人同士であれば、何をやり取りしても楽しい時期があるだろう。相手を勝手に美化したり、やり取りしているという事実が感情を高めてしまったりする。しかし、気付いてみれば二人の関係、将来について話し合うわけでなく、単にやり取り、会話に酔っているに過ぎなかったりする。
 そういう時期を過ぎると、お互いの関係を前向きに進めていくための対話がはじまる。場合によってはそのあたりで別れがあるかも知れない。ともかくも、お互い相手を見詰め、相手と自分の関係をしっかり考えて、確認していくようになる。単なる会話ではなく、将来を見据えた対話になっていくのだ。

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 会話をしても、対話が成り立たないというのは、そもそも相手のことを考えたり尊重したりしていないからなのだろう。
 初期の恋人同士の会話は、自分の脳の中にいる相手と会話しているようなもので、ほとんど相手のことなど見ていない。脳が本来の感覚を麻痺させて快感に酔いしれる状態を作ってしまっている。冷静に相手のことなど見ていない。
 それを入り口に関係が出来ていくのだから、ヒトとはそう言うものなのだろう。そうやって男女が引き合うように出来ているらしい。扁桃体やらA10神経やらが我々をそういう方向にコントロールしている。
甘い会話の快感に酔いしれる時期を過ぎると、いよいよ人間としての関係を煮詰める時期に入る。冷静に物事を考えられるようになる。
 相手を尊重しつつ、自分の思いを整理したり主張しながら、関係を作っていく。ここには対話がなければどうしようもない。
 いくら相手が自分の思うような存在ではないと思ったところで、本当にそうかどうかも対話してみなければ分からない。対話によって自分が思っていることとは違う、前向きな発見もあるかも知れない。そうして関係を成熟させていく。

 ベターハーフという言葉がある。

 本来は、1つだったものが別れて別々になった存在。それがもう一度一つになる。それが夫婦であると。
 しかし、現実にはそんなことはあり得ない。そんな都合のよい存在に出会うことなど、まずないだろう。この人こそベターハーフだと思っても、それはほとんどの場合勘違いだ。ビビッと来た人と結婚して幸せになるというのはかなり難しいだろう。
 結局、ベターハーフになるしかない。お互いの努力によってよりよき相手になっていくしかないのだ。そこでは相手を理解し、相手と対話を続けて行くしかない。
 そこにたどり着けない相手はもちろんいるし、その相手にいくら頑張ってみても仕方が無い。好きという感情と、パートナーとしてやっていけるかどうかは違う。
どうしてもうまく行かないなら、あきらめて新たな相手を探すしかない。どちらかが自分の感情だけに埋没してストーカー化しても仕方が無い。

 知りあいの中には、精神的に病んでいる時期に出会った、特段愛情をもてなかった相手と結婚し、その相手によって病んだ状態から見事に立ち直ることができた人もいる。相手の愛情と互いの努力によって救われたのだ。もちろん、本人に聡明さがあったからこそ自分を見つめ直すことが出来たわけで、本人が自覚しない限りはおそらくうまくいかなかっただろう。乗り越えるためには自分の問題に向き合う非常に苦しい時期があったと言っていた。そこを支えたのが相手の人であったわけだ。

 恋愛感情など単なる入り口に過ぎない。その向こうを見据えることが出来てこそ関係はなり立つ。

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 しかし、損得勘定や共依存を求めて相手を決めて、そのまま精神的に不幸な結婚生活を続けている人を知っているし、あっという間に関係が崩壊したような人も知っている。結局人同士をつなぎ止めるのは愛情なのだろう。
 そもそも共依存なんて、絶対に関係がなくなることがない親子関係でしか成立しない絶対的強制的支配関係だ(虐待の中で成立する異常な関係)。全くの他人との間にもとめても必ず破綻するに決まっている。
ステップアップの中でしか、関係は深められそうにない。最初から完璧な相手、完璧な関係などあろうはずがない。会話ではなく、対話の中で作り上げていくしかない。

 なんの対話もなく、ただ都合のいい相手はいないかと追い求めることは、メーテルリンクの「青い鳥」になぞらえて、俗に青い鳥症候群などという。

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 いくら会話が楽しくても、対話がなければ人間同士の関係は深まらない。
 これは男女に限らずだ。
 日本人は対話を嫌がる傾向が強い。空気を読め、察しろという。これは最近になっても変わらないし、KY(空気読めない)などとむしろ若い世代でも強く意識されるようになっている。
 その結果、ひどく議論が下手で、同調圧力の強いムラ社会ばかりがそこかしこに構成され、同調しないものは人格攻撃で貶めることがあたり前になっている。
 今や、社会一般にこういうことが広く見られるようになっている。その結果、自分たちと違うと感じるものを激しく攻撃したり、排除しようとしたり、言葉で貶めたりする。

 日本のメディアだけ見ても気がつきにくいが、日本は国際的に孤立しようとし、経済的には完全に取り残されている。今や中国の遙か後で、なにかと下に見てきた韓国の後塵を拝する状態になっている。

 この日本の現状は、自分たちの価値観に閉じこもり、その場限りの会話ばかりを重視し、かんじんの対話のなさに起因しているように思われるのだが。