ヘルマプロディートス

自分は生物学的には男性として生まれている。機能的には間違いなく男性。

ただ、あまり筋肉はつかない体質だし、子供の頃から痩せていたのに皮下脂肪がやや多め。特にお尻が大きい。

男性の体型としてはちょっと標準的ではなさそう。

では心はと言えば、男性ではあるのだけれど、女性寄り。男性一般とは感覚があわず、どちらかというと女性の感覚に近い感じがある。知りあいも圧倒的に女性が多い。特に群れている男性がとても苦手だ。

 

だからと言って性同一性障害かというとそういうことではない。

小学校一年生ぐらいの時、NHKでルーブル美術館という番組を放送していた。そこで取りあげられていた『眠れるヘルマプロディートス』という彫像を見てはっと気付いた。これは自分だと。

ご存じの方も多いだろうが、これは両性具有のギリシャの神ヘルマプロディートスである。

Wikipediaから引用してみよう(上の写真もWikipediaからの引用)

ヘルマプロディートス古希ἙρμαφρόδιτοςHermaphrodītosラテン語Hermaphroditus)とは、ギリシア神話に登場するである。ヘルメースを父に、アプロディーテーを母に生まれた頗るつきの美少年であったが、水浴びのさなかにニュンペーサルマキス強姦され、文字通りに一つに合体して両性具有者となった。

ヘルマプロディートスの名は、両親にちなんでいるだけでなく、美しい女体をもった美少年(ヘルメースにしてなおかつアプロディーテー)という意味も持つ。また、「両性具有」「雌雄同体」を意味する “hermaphrodite” という語の語源でもある。日本語では長母音を省略してヘルマプロディトスとも表記される。

幼い頃の私は、既に自分が男性として生まれながら女性的な要素を強めに持っていることを意識していたらしい。肉体的には男性だが、精神的には両性具有的だと自分で感じていたようだ。

だからどうも男の子とはいまいちウマが合わず、幼い頃は女の子と遊ぶことが多かった。お人形遊びとかをしたかったようだ。しかし、女の子の家へ遊びに行ってもいつも男の子の人形で男の子役をさせられてつまらなかった。

しかし、自動車とか男の子のおもちゃも好きだし、心は完全に女性と言うことでは全くなかった。

時々、女の子とばかり一緒に過ごし、女の子から女の子扱いされている男の子というのがいるが、自分とは明らかに違う、と感じていた。

基本的に粗暴な男の子の集団に対する嫌悪感が強かったので、可愛くて優しい女の子と過ごすことを好み、男の子と女の子選べるとしたらどちらを選ぶと聞かれたら、女の子と答えていた。

実際には選ぶことは出来ないから、自分は男性であるものの、女性的要素が強い両性具有的な人間であると思ってきたようだ。

ただ、幼い自分は女の子の方がいいと思っていて、自分がそうであるように、男の子というのはみんな女の子になりたいのだと思い込んでいたのだ。しかし、他の男の子は全くそんなことはないと否定していた。なんで隠しているのだろうとすら思っていた。それぐらい自分にとっては選べるなら女の子になりたいという感覚はあたり前のものだったようだ。

生徒からも、お姉さんか妹がいるでしょ?とよく言われたが、うちには兄がいるだけで、唯一の女性である母親は、当時の女性としては背が高めで真っ黒い男性用自転車に乗っているような、あまり女性らしさを前面に出さない人だった。女性的要素は生まれもってのものらしい。

昔Niftyserveやインターネットでイラストを発表していた頃は、イラストや文章から女性と思われることも多かった。

 

日本でも性同一性障害が認知されるようになり、遅ればせながら法整備も進んだ。

しかし手術をしたところで生物学的ベースは男性であることは変わらず、真に女性になることは出来ないし、そこまでして女性として生きたいとも思わない。自分の心が女性そのものであると言うことはないのだから。

自分はどうもどっちつかずな存在ではあるけれど、女性をより理解できる点で存在意義はあるのだろう。

 

頑張れ!

仕事柄、いろいろな子供たちに接する。
中には精神的な虐待、教育虐待を受けているような子もいる。進学校では多いようだ。

そうした中には、希死念慮でリストカット、自殺未遂を繰り返すような子もいる。
あるいは、完全に自分の意志を失い、親の支配下でさながら親の命令に従うロボットのようになっているような子もいる。

そうした子たちの将来は、大概厳しいものになる。精神科にかかり入院をする子もいるし、自覚ないまま苦しみ続ける子もいる。

虐待をする親とされる子は、共依存と呼ばれる関係になっている。
子供は親の保護がなければ生きていけない。なんとしても親にしがみつこうとする。親はそれを利用して思うままの要求を突きつけ実行させる。子は親に依存して生きるのはあたり前であるが、親がそれを利用して意のままに支配する。子が親に親に否応なく依存することを利用して支配被支配の関係を作っているのだ。

この親は大概子が大きくなっても独立を阻もうとし、死ぬまで支配を続ける。子は独立を試行するが、共依存の人間関係しか作れず結婚に失敗し当然独立にも失敗、結局、それ見たことかという親の支配下に戻ることも多いらしい。

共依存を経験した被虐待者は、周囲の人間関係で自分がされたのと同じ共依存関係を作ろうとすることが多いらしい。自分に依存させられそうなターゲットを探し、支配下に置こうとする。
一番分かりやすいのが恋人や結婚相手だ。だらしのない、何かの問題を抱えた、あるいはミュージシャン志望などで自力では生活が成り立たない様な者を金銭面や生活上で自分に依存させ、支配してしまう。逃れられないようにして相手を縛り付ける。支配下に置くことで、虐待親がやっていたように相手を傷つけ奪うことを続ける苦しい関係になってしまう。
万が一にもまじめに働こうとしたり、夢が実現しかけてしまったら、それを阻もうとする。自分に依存させられなくなっては支配が出来なくなるからだ。
しかし、決して縁が切れることがない親子関係と違い、他人との関係は簡単に切れる。共依存の関係など必ず破綻する。

しかし、共依存という人間関係しか知らない被虐待者は、次の共依存相手を探し続ける。

また、子供をもうけても、自分がされたように子を支配し、虐待してしまうことが多い。虐待の世代間連鎖は極めて起こりやすいと言われている。

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卒業生達の中には、この共依存を乗り越えて、幸せに生活をしている人もいる。ただし、乗り越えるのはかなりの苦しみと、それを支えるパートナーの存在あってこそだったという。

別の卒業生は、リストカットを繰り返したものの、やはりよいパートナーに支えられ、苦しい状態を乗り越え、今は子供を育てなから未来を見据えて生きている。

なかには一切に目をつぶり、自身の生きづらさの原因を見据えなんとかしようとすることなく生きている人もいる。自覚がないから治療を受けることもなく、今後もずっと生きづらさを抱えながら生きて行くことになるのだろう。

兎にも角にも、それぞれに頑張って生きているのではある。

本当は自分で自分の問題をとらえ、それを解決出来ればいいのだが、残念ながらそうも行かないようなのだ。

自分で気付き、自分自身に向き合って行くには、それなりの聡明さ、自分を分析する力を必要とするらしい。支配が強すぎたのか、一切の問題を思考停止や記憶の書き換え、感情の抑制で乗り切ろうとしてしまう人は、どうやっても自分と向き合うことができない。

きちんと自分と向き合えた人は、自分が自分が受けたような虐待をしてしまうのではないかとおびえつつも子供を育て、子供と向き合い、未来を語っている。

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パーソナリティ障害などの精神的な問題の治療を受けるかどうかは、本人が望むかどうかだ。本人が生きづらさを自覚し、何とかしたいと思うことで、治療も可能になる。自殺未遂を繰り返したり、反社会行動などでもない限りは、強制的に治療を受けさせることは出来ない。

残念ながら、自覚を持たないまま問題のある行動を続ける人も少なくないようだ。特に他人を巻き込みやすいものに境界性パーソナリティ障害や自己愛パーソナリティ障害がある。

精神的な問題を抱え苦しんでいる人も、それを乗り越えた人も、精神障害のある人に振り回されて傷つき苦労している人達も、それを支援する人達も、みんなみんな、頑張れ、と言いたい。

 

そして、自覚ないまま苦しみを抱え、他人を巻き込み振り回してしまっているような人達には、自分自身と向き合うべく頑張れ、と。